地球上でいちばん少ない天然の元素は何か。答えは、85番元素アスタチンです。
どれくらい少ないかというと、地球の地殻をすべて合わせても、存在する量はごくわずか。しかも、生まれたそばから壊れていくため、その量が増えることはありません。誰ひとり、この元素の固まりを見たことがないのです。
ところがこの「幻の元素」が今、がん治療の切り札として注目を集めています。しかも研究の最前線を走っているのは日本のチームです。
この記事では、アスタチンがどんな元素なのか、なぜこれほど少ないのか、そしてなぜ医療の現場で期待されているのかを、専門用語をかみ砕いてやさしく解説します。
アスタチンとは?まずは基本プロフィールをチェック
はじめに、アスタチンがどんな元素なのかを表で確認しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 元素記号 | At |
| 原子番号 | 85 |
| 周期表での位置 | 第6周期・第17族(ハロゲン、ヨウ素の下) |
| 見た目 | 誰も見たことがない(暗い光沢を持つ固体と予想) |
| 天然での存在 | 地殻全体でもごくわずか(天然元素で最少) |
| 安定同位体 | なし(すべての同位体が放射性) |
| いちばん長い半減期 | アスタチン210の約8.1時間 |
| 医療で使う同位体 | アスタチン211(半減期約7.2時間) |
| 発見 | 1940年、コーソン、マッケンジー、セグレ |
| 名前の由来 | ギリシャ語のastatos(不安定な) |
天然の元素のなかで、地球上にいちばん少ない
アスタチンは、天然に存在する元素のなかでもっとも量が少ない元素です。
どれくらい少ないかという見積もりは資料によって幅があり、地殻全体でも1グラム未満とするものから、30グラムほどとするものまであります。いずれにしても、大人の手のひらに載る程度の量しか、地球全体に存在しないということです。
次に少ないフランシウムでさえ30グラム程度と見積もられていますから、アスタチンの希少さは群を抜いています。
名前の意味は、そのまま「不安定」
「アスタチン」という名前は、ギリシャ語で「不安定な」を意味するastatosから来ています。発見者たちが、この元素の性質をそのまま名前にしました。
実際、知られている40種類ほどの同位体はすべて放射性で、安定なものはひとつもありません。いちばん長生きなアスタチン210でも半減期は約8.1時間。朝に作ったら、夕方には半分になっている計算です。
誰も「見た」ことがない元素
アスタチンには、ほかの元素にはない特徴があります。目に見える量を集めることが、原理的にできないのです。
理由は自分自身の放射線にあります。アスタチンはアルファ線を出して崩壊しますが、大量に集めるとその放射線が熱に変わり、アスタチン自身を蒸発させてしまいます。つまり、固まりを作ろうとした瞬間に消えてしまうわけです。
そのため、この元素の融点や沸点、色といった基本的な性質でさえ、いまだに実測されていません。表に書いた「暗い光沢を持つ固体」も、周期表の位置からの推測にすぎないのです。
発見までの道のり|幻の85番元素をめぐる物語
アスタチンの歴史も、テクネチウムと同じように「幻の発見」の連続でした。
メンデレーエフの予言「エカヨウ素」
周期表を作ったドミトリ・メンデレーエフは、ヨウ素の下にもうひとつハロゲンの仲間が入るはずだと予言し、それを「エカヨウ素」と呼びました。エカはサンスクリット語で「1」。ヨウ素のひとつ下、という意味です。
「アラバミン」「ダキン」「ヘルベチウム」
1930年代、この空席を埋めたという報告が次々に現れました。
1931年にはアメリカのフレッド・アリソンらが発見を主張し、地元の州名から「アラバミン」と命名。1937年にはインドのラジェンドララル・デーが「ダキン」を、1940年にはスイスのヴァルター・ミンダーが「ヘルベチウム」を報告しています。ルーマニアの物理学者ホリア・フルベイも「ドール」という名前を提案しました。
しかし、どれも追試で確認できず、消えていきました。テクネチウムのときの「マスリウム」や「ニッポニウム」とよく似た展開です。
1940年、ビスマスにアルファ線を当てて
決着をつけたのは、1940年のカリフォルニア大学バークレー校でした。デール・コーソン、ケネス・マッケンジー、そしてエミリオ・セグレの3人です。
方法はこうです。ビスマス209の標的に、サイクロトロンで加速したアルファ線(ヘリウムの原子核)を当てる。陽子が83個のビスマスに、陽子2個を持つヘリウムがくっつけば、85番元素になります。こうして生まれたのがアスタチン211でした。
ここで名前が出てくるエミリオ・セグレは、その3年前にイタリアで43番元素テクネチウムを発見した、あの人物です。1938年にイタリアで人種法が施行され、ユダヤ系だった彼は大学の職を失い、滞在先のアメリカにとどまることになりました。その地で、2つ目の新元素を見つけたことになります。ちなみにセグレは、のちに反陽子の発見で1959年のノーベル物理学賞を受賞しています。
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なお、ビスマス209を標的にして新しい元素を作るという方法は、日本が113番元素ニホニウムを合成したときにも使われました。標的が同じでも、ぶつける相手を変えると、まったく別の元素が生まれるわけです。
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1943年、自然界にも存在することが判明
人工的に作られたあと、1943年にはベルタ・カーリクとトラウデ・ベルネルトによって、天然のアスタチンも確認されました。ウランやトリウムが崩壊していく途中に、アスタチンが一瞬だけ顔を出すことがわかったのです。
現在では、天然に存在するアスタチンの同位体は4種類が知られています。
なぜアスタチンはこれほど少ないのか
答えは「寿命が短すぎるから」です。
地球ができたときにあった分は、半減期が数時間の元素ですから、とっくに消えています。今地球にあるアスタチンは、ウランやトリウムが長い時間をかけて崩壊していく連鎖のなかで、たまたま通り過ぎる途中の姿なのです。
しかも、ウランやトリウムが壊れていく道すじは一本道ではなく、ところどころで枝分かれしています。アスタチンが姿を見せるのは、そのうちの細いほうの枝だけ。だから量はますます少なくなります。
つまりアスタチンは、たまった水ではなく流れている水のような元素です。常にどこかで生まれ、常にどこかで壊れている。その収支がつり合った結果が、「地球全体で数グラム以下」という量なのです。
どんな性質を持っているの?
アスタチンは周期表の第17族、フッ素、塩素、臭素、ヨウ素と同じハロゲンの仲間です。ただし、ハロゲンのなかでもいちばん重い位置にいるため、上のメンバーとは少し様子が違います。
フッ素や塩素が気体、臭素が液体、ヨウ素が固体というように、下にいくほど金属らしさが増していきます。その延長線上にあるアスタチンは、半導体か、あるいは金属になるのではないかと予想されています。
推定されている融点は約302℃、沸点は約337℃。ヨウ素より高く、金属に近づいていく傾向が見て取れます。ただしこれも実測値ではなく、周期表の並びから導かれた見積もりです。
化学的にはヨウ素によく似たふるまいをしますが、金属らしい性質を見せることもあり、銀との共通点が指摘されることもあります。こうした性質のほとんどが、ごく微量を使った実験と理論計算から推測されたものです。
がん治療の切り札として注目される「アスタチン211」
ここからが、この元素がいま注目されている理由です。
アルファ線は「細胞1個分」で止まる
アスタチン211が出すアルファ線は、エネルギーが高いかわりに、飛ぶ距離がとても短いという特徴があります。体の中では、ほぼ細胞1個分ほどの距離で止まってしまうほどです。
これは、がん治療にとって大きな長所になります。がん細胞のところまで薬を届けてからアルファ線を出させれば、周りの正常な細胞をほとんど傷つけずに、狙ったがん細胞だけを壊せるからです。この考え方を「標的アルファ線治療」と呼びます。
ヨウ素に似ているから、甲状腺に集まる
もうひとつの利点が、ヨウ素との近さです。
甲状腺はヨウ素を取り込む性質があり、この性質を利用した放射性ヨウ素(ヨウ素131)による治療が古くから行われてきました。アスタチンはヨウ素と同じハロゲンなので、体内でも似たようなふるまいをします。つまり、ヨウ素の代わりにアスタチンを送り込めば、甲状腺のがんをアルファ線で狙えるというわけです。
日本が世界の最前線を走っている
この分野で先頭を走っているのが日本です。
大阪大学医学部附属病院では、標準的な治療では効果が得られない分化型甲状腺がんの患者を対象に、アスタチン化ナトリウム注射液を使った医師主導治験が2021年11月から行われました。原料となるアスタチンは、理化学研究所や大阪大学核物理研究センターの加速器で作られたものです。
2025年に発表された結果によると、11名の患者に1回だけ投与した試験で、薬を安全に投与できることが確認されました。さらに、中・高用量を投与した9名のうち3名で腫瘍マーカーが半分以下に下がり、3名では画像検査で転移した病変の消失が確認されています。
2024年6月からは、難治性の前立腺がんを対象にした2つ目の医師主導治験も始まりました。今後は大学発のスタートアップ企業が企業治験を進め、医薬品としての承認を目指すとされています。国の計画でも、アスタチンを使った放射性医薬品について2028年度を目途に実用化を目指す方針が示されています。
課題は「作ってすぐ使う」
いいことずくめに見えますが、大きな課題もあります。半減期が約7.2時間しかないことです。
アスタチン211は、サイクロトロンでビスマスにアルファ線を当てて作り、そこから分離・精製して薬にします。ところが、作ってから患者に届くまでに時間がかかれば、その間にどんどん減ってしまいます。まとめて作って倉庫に置いておく、ということができません。
加速器を持つ研究機関と病院が近くにあり、製造から投薬までを1日で回せる体制が要る。大阪大学の治験でも、理化学研究所などの加速器で作ったアスタチンを運び込み、病院の中で治験薬に仕上げるという形が取られました。分離と精製を自動で行う装置の開発も進められています。
一方で、寿命の短さが利点になる場面もあります。放射性ヨウ素による甲状腺がんの治療では、患者から出る放射線が強いため専用の病棟に入院する必要がありますが、アスタチンなら外来での治療も可能になると期待されています。この供給の壁をどう越えるかが、実用化のカギになりそうです。
アルファ線でがんを治す、という考え方
アルファ線を使ったがん治療は、アスタチンだけの話ではありません。すでに実用化された薬もあります。前立腺がんの骨への転移に使われるラジウム223の注射薬は、日本でも2016年に承認され、実際の治療に使われています。
アルファ線を出す核種としては、アスタチン211のほかにアクチニウム225や鉛212なども世界中で研究されています。それぞれに一長一短があり、アクチニウム225は半減期が10日ほどと扱いやすい反面、原料の確保が難しい。アスタチン211は加速器さえあれば作れますが、半減期が短いぶん供給の設計が難しくなります。臨床データの蓄積という点では、アスタチンはまだ後発にあたります。
それでもアスタチンには、ほかにない武器があります。「ヨウ素に似ている」という性質です。ヨウ素が集まる場所ならアスタチンも集まる。この使いどころがはっきりしていることが、日本の研究が先行できた理由のひとつでもあります。
診断のテクネチウム、治療のアスタチン
医療で使う放射性元素には、大きく分けて「診断のためのもの」と「治療のためのもの」があります。43番元素テクネチウムとこの記事のアスタチンは、ちょうどその両極にいる存在です。
| 項目 | テクネチウム99m | アスタチン211 |
|---|---|---|
| 役割 | 検査(診断) | 治療 |
| 出す放射線 | ガンマ線 | アルファ線 |
| 放射線が届く距離 | 体を突き抜けて外まで | 細胞1個分ほど |
| 半減期 | 約6時間 | 約7.2時間 |
| 作り方 | 原子炉でモリブデン99を作り、そこから取り出す | 加速器でビスマスにアルファ線を当てる |
| ねらい | 体の中の様子を画像にする | がん細胞を内側から壊す |
ガンマ線は透過力が強いので、体を通り抜けて外のカメラまで届きます。だから、薬がどこに集まったかを画像にできます。一方のアルファ線は、紙1枚でも止まってしまうほど透過力が弱い。外から観察することはできませんが、そのぶんエネルギーを狙った場所に集中して置いていけます。
透過力が弱いことは、診断では欠点でも、治療では長所になる。同じ「放射線を出す元素」でも、性質の違いがそのまま役割の違いになっているのです。
アスタチンに関するよくある質問
Q. アスタチン治療はもう受けられるの?
まだ研究段階です。安全性や適切な投与量を確かめる初期の臨床試験が終わった段階で、有効性の本格的な検証はこれからになります。がんの治療方針については、主治医と相談してください。
Q. アスタチンは購入できる?
一般には入手できません。加速器を持つ研究機関が必要な分だけ作り、その日のうちに使うという形でしか存在できない元素です。
Q. 危険な元素ではないの?
強い放射線を出す元素なので、取り扱いは専門機関に限られます。一方で医療に使う場合は、半減期が短いことがむしろ利点になります。役目を終えたあとは急速に減っていくため、体内に長く残りません。
Q. アルファ線は体に悪くないの?
アルファ線は透過力が弱く、体の外からでは皮膚すら通り抜けられません。問題になるのは体の中に入った場合です。標的アルファ線治療は、その性質を逆手に取り、がん細胞のすぐそばでだけ放射線が出るように設計された治療法だといえます。
Q. ハロゲンのなかでいちばん重い元素?
天然に存在するものとしてはそうです。ただし周期表上では、その下に117番元素テネシンがあります。テネシンは人工的にごくわずかしか作られておらず、性質もほとんどわかっていません。
まとめ
最後に、この記事のポイントをおさらいしておきましょう。
- アスタチンは原子番号85、天然の元素のなかで地球上にもっとも少ない元素
- 自分の放射線の熱で蒸発してしまうため、固まりを見た人がいない
- 1940年、ビスマスにアルファ線を当てる方法で作られた
- アスタチン211が出すアルファ線は細胞1個分で止まり、がんを狙い撃ちできる
- 日本のチームが臨床試験で先頭を走っている
地球上にほとんど存在せず、目で見ることもできない元素が、いま人の命を救う薬になろうとしている。アスタチンは、希少であることと役に立たないことはまったく別なのだと教えてくれる元素です。
